前回の記事で、「背景」と「目的」が明確に書かれていること、と書いたのですが、特に目的は簡潔に明確にかかれていなければならず、何が目的なのか何なのか、のような内容はアウトです。
それと、明確に書くという事は、言い換えれば明確に書けば書くほどそれが適切か適切でないかが「明確」になります。
何かなぞかけみたいな言い方になってしまいましたが・・・
ようはその後に続く研究方法が目的に沿った方法であることが重要。
研究方法と目的が結びついているないと、論文になりません。
また、その延長上に当然ながら、
目的に対応した結果が導き出されていること、
これ必須です。
例えば、目的とする内容とは全く関係のない数値を求めてモノを言っていたり、統制条件が正確でなく雑音が入って何の影響なのか判然としない結果なども目的に沿った結果にはなりえません。
「目的」は論文の全体の量からしたら、ほんの数行たらずですが、論文と言えるかどうかの最低ラインであると、
今日はこれを肝に銘じてくださいね。
修士論文・卒業論文の個人指導を行っていると受講生の方から
「論文は何を対象に評価されますか?」とか
「良い論文の評価基準は何ですか?」
という質問を受けることがあります。
合格と不合格を分ける基準は何かという事を気にされての質問ですが、
およそ「構成」と「内容」の2つの側面かなと思います。
そこで今日は「構成」について。
まず、構成のおさらいですが、基本の基としてまず
「先行研究の外観も含めた研究の背景」、
そしてそこから導き出される
「目的」、
この2つが明確に述べられていること、
これは必須です。
よくある失敗は、調査や実験、分析といった論文で実際に行う事ばかりに目がいってしまい、この背景と目的の叙述がおろそかになること。
正攻法でいえば、「背景」があって、ゆえに「目的」が導かれて、ゆえにその目的を達成するために、何らかの「方法」で「調査や実験、検証」を行うという順番ですが、正直なところ、とりあえず、何をするか=「調査や実験、検証」が先に決まることも多々あります。
仮にそうであってもとにかく「背景」と「目的」が明確に書かれていることは必須です。
ここがいい加減な方が結構多い。
まず、これを肝に銘じてくださいね。
先日Conclusion(結論)がないといううっかりミスについてResult(結果)とDiscussion(考察)を一緒に書く場合に、うっかりしやすいという事を書きました。
今日は別のパターンについて書こうと思います。
Conclusion(結論)なのにSummary(要約)を書いてしまう失敗。
文字数にあまり制限がない修論や、文字数を増やすことを意識した修論などで、そこまでの内容をConclusion(結論)でいったん、まとめるという書き方をする場合があります。
この時に、すでに例えばConclusion(結論)と言えどもSummary(要約)と今後の展望などでゆるくまとめて終わった場合、修論だと、これで通る場合も多いです。
しかし投稿論文になると、当然ながらSummary(要約)をもってConclusion(結論)にすることはできません。そもそもそれはAbstractionの繰り返し。
Conclusion(結論)は
最初に設定したResearch Questionに対する答えや、
仮説の検証結果に対する考察
など、論文の要を書くところです。
Conclusion(結論)がSummary(要約)で終わってしまう、基本的なうっかりミスをしてしまわないように気を付けてくださいね。
前にも記事に書いたように思うのですが、投稿論文で、「うっかりと!?」Conclusion(結論)がないという論文を、時々拝見します。
「は?、そんなことないでしょう。」、と思われるかもしれないのですが、それがあるのです。
よくある間違いの一つは、MGTAなどで、Result(結果)とDiscussion(考察)が分けがたく、一緒に書いたような場合、そこで終わってしまっている論文。
もちろんDiscussion(考察)でConclusion(結論)に変えるという書き方、もありますが、、Result(結果)とDiscussion(考察)を一緒に書く場合は、General Discussion(総合考察)がないと、内容がペラペラになりますし、個人的には構成がアンバランスに思います。
この場合、General Discussion(総合考察)がConclusion(結論)の位置づけです。
文字数に余裕があるような修論では、Discussion(考察)でConclusion(結論)を詳細に書くことで良しとされる場合もありますが、投稿論文ではここは注意したいところです。
もちろん論文を書く経験を積んでこられた方は、このようなミスはされませんが、修論を投稿するなど、初めて投稿論文を書かれる方に多いように思います。
これから投稿される方は、「Conclusion(結論)がない」なんてそんなことはあり得ないと思われるかもしれませんが、今一度、客観的に論文を読み直し確認されてくださいね。
前回に引き続き。添削サポートをお引き受けできない事例について。
博士論文は最終の公聴会に至るまで、通常は何回かの非公式の公聴会(ちょっと変な表現)が繰り返されます。
そこで色々と、指摘が出て、それに合わせて加筆修正していかねばなりません。
過去に、
「この論文の新奇性が感じられない。新奇性のある内容について書き直すように」といった指示が、主査や副査の先生方から出されたそうで、その「新奇性」について加筆してほしいという添削依頼。
これは、まず投稿論文の査読が返ってきた場合と一緒で執筆者考えて、加筆修正するべき内容です。
洗練化のためのディスカッションは良いですが、他者に書き直しを依頼するのは、代行になります。
それと、そもそも「新奇性」がないということは、根本的に全体を考え直さなければいけない本質的な問題の指摘です。
それを「添削で加筆修正」できると考えるのは、その時点で、甘いと思うのですね。
そんなに簡単な問題ではありません。
おそらく私たちがサポートするとするならば、内容も当然ながら構成から考え直したり、新たな宣告研究を追加して別の視点や論点を入れたり、場合によっては追加データを加えることも考える、そういったことをディスカッションする個人セッションを重ねると思います。
いつもになくちょっと厳しい言い方になってしまいましたが、たまにはよいですかね。
よろしくご理解くださいね。
一度修士論文を不合格になって昨年度の夏に提出された方々、あるいは今年度に提出された方々のなかで、最初の年の提出に落ちられた要因の一つが、
「合格基準を見くびっていた」
ということがあります。
「うちの大学(大学院)は、ゆるゆるだから、適当に出したら大丈夫と思ってた」
「先輩の論文を読んで、これで通るのかと思ってたのに。先輩のと私のとは大して変わらないのに、なぜ私が落とされたかわからない」
「一人のインタビューで通った人がいるから、三人インタビューすれば大丈夫と思った」
という話などなど。
そして、今もちらほら聞いたりします。
なにをもって「ゆるゆる」と判断したのか、先輩の論文が本当に大したことなかったのか、それはわかりませんが、
まず自分勝手に合格基準が低いと判断して
その低い基準をクリアすればよいという発想は
甘いと言わざるを得ません。
実は先輩の論文にはきらりと光るものがあったのかもしれないですし、
そもそも、評価される教官によって評価基準も異なるでしょうし、
また、主査と副査の組み合わせによってもよくも悪くも相乗効果(?)で変わることもあるでしょう。
インタビューの人数にしても一人でもそれが貴重な一人かもしれないですし、
そもそも事例研究なら一人はあり得ます。
単に、うわべだけ見て、自分で合格基準を想定するのは危険。
そもそもそれ以前に適当な低いレベルでいいわというスタンスでなく、
せっかく書くのですから
自分のベストを尽くして書いていくよう心掛けるべきだと私は思います。
結果はその先についてきます。
投稿論文のサポートをさせていただいていて感じたこと。
もちろん投稿しようかと考える方々なので、ご研究の経験は3年以上です。
投稿論文のアクセプトのを取るポイントのひとつは、
限られた文字数の中で、いかに効果的に研究内容をまとめるかにあります。
あたりまえやんということですが。
これの最も基本的なところである、
研究の文脈をスムーズに流れさせる
というところで、引っかかられている方が案外多いです。
例えば、先の節で書いた内容をまた繰り返しているとか、シンプルに進められるところをなぜこんなにひねくりまわしてしまっているのかとか。
投稿論文ではまず一緒に書かれた文章を読み進めらながら検討するのですが、
読んでいくうちにすっきりとしていないところは「ん?!」
と引っかかるわけで、文章は上手に書かれているので何に引っかかるのかはすぐには把握できません。
それでそのあたりを何回か読んで、あ、ここだ!と気づきます。
文章のうまさでカモフラージュされているものの、やはり文脈が流れていない。
指摘したら、その方も納得されるところがほとんどで、
「なぜ、こんな風に書いてしまったのだろう?」
と自分でも不思議に思われます。
論文を書きながら何回も推敲するわけですが、そのうち、
目が慣れてしまって、文脈の不自然さに気づかないのだと思います。
私も何回かその御研究についてディスカッションしてきて、内容自体には慣れてしまっているので、気づきはしたものの、
まったくの第三者が読めばもっと不自然にすぐに感じられる、あるいは論理性の問題にすぐに気づかれるかもしれません。
論文を書く段階で、同僚や友人など
第三者に一度読んでもらって、感想を聞く
というのも、論理的な論文を書く上で有効な手段だと思います。
修論のサポートをしていると、「指導教官から指示がでています」とか、「これだけは最低限でもしっかりと書いておくようにと言われました」と、よくうかがうところの最低限の条件があります。
それは方法論をしっかり示すように、ということ。
要はアカデミックな方法(あるいは理論)に従った分析の手順を明確に示すように、ということです。
確かに、これは必須の条件ですね。
客観的に=科学的に説明をするためには、確立された方法に従って論理や分析を進めていかなければなりません。
基盤の基という感じです。
わかりやすいところでは、統計の手法やGTA、SCAT、KJ法などの量的、質的といった方法がありますが、歴史学や文学、哲学にも方法があります。
方法論だけでまた、一つの研究領域にもなります。
主観や先入観で結論はこうあるはずのような方法をすっ飛ばした内容は、まず落とされます。
どんな分野でも、どのような方法にのっとって論理を進めていくのか、明確に書くということを意識してくださいね。
歴史学という広い領域に入ると思うのですが、何らかのテーマや論点に沿ってその歴史を追う「~史学」といった学問の領域があります。
この領域でのサポートをさせていただくことが、偶然、これまでに3回あり、いずれも面白いテーマで、印象に残るご研究でした。
つい先日、その一つが完了したので、ちょっと思うところをメモしておきたいと思います。
当然、史料の収集が命で、たくさんの資料を探して読まなければなりません。
最近はインターネット上で Archiveがあり、16世紀ぐらいの資料も閲覧できるようで、驚きました。
代表的なサイトはInternet Archive “Wayback Machine”で、
このリンク先(上の文字にリンクを貼っています)で検索できます。
先日のテーマでは、現在に至る考え方がどのような変遷をもってきたのかを読み解いていくというご研究でしたが、その変遷でターニングポイントとなる時期、またターニングポイントとなる言及をされたキーパーソンを宝探しのように、見つけていきました。
また、単に、歴史上のポイント的な探索をするのでなく、その時代を取り巻いていた文化や環境も考察していかなければなりません。
歴史を単に追っていくならば事実を記載していくだけのように見えますが、
何らかの新しい視点や発見を入れなければならず、
そこに、独創性や新規性が求められるわけでその点は、学術論文の共通項ですね。
史料の確かさや解釈、
変遷の流れの捉え方に対する
論理的な説明で
信頼性を高める、といったことが、論文の評価基準に照らしあわされて読まれるわけで、求められるこれらの基準のポイントも共通項と思います。
また、指導教官によって考え方の違いはあるかもしれませんが、
論文構成はIMRD(Introduction/Method/Resut/Discussion)で書く、
これも共通項です。
ふと思ったことですが、研究者になるのではなくとも卒論や修論を描くことが求められるのは、
こういう思考の方法を身に着けるトレーニングなのかなと、改めて思った次第です。
今日は独り言っぽいブログになりました・・・(o^―^o)
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